20191110

ごく自然に、自らの好きなものや天気や花の話、自らの考えを相手に向けて話す事ができる人には心底憧れてしまう。 自らを許せていない僕は、そんなマインドに殺されてしまうのでございました。傷付けるよりも、傷付いた方が、うんと楽ですから、弱さを晒して、戯けて、大した意思も持たずに微笑んでいれば、愛されますから、つくづく、くだらない人間なのでございました。つくづく、心底、くだらない人間なのでございます。僕は、僕で無くなるべきなのでございます。しかし僕は、貴方に、佇まいが、月のようだと言われた事だけを救いに、日々、生きるのでございました。

20191109

ここ最近晴れがよく続いている。人間ってのは(いや、僕だけなのかもしれない)変化に恐怖するくせにそれを求めたりすれば、逆も然りで恒久的なものに怯えるのに、それを求めたりする。気まぐれなんて言って仕舞えば、可愛く聞こえたりもするが、都合が良すぎるし、狡すぎる。あまりに馬鹿であまりに品がないのだ。 どうでもいいだけの雨を求めている。どうでもいい場所で、どうでもいいくらいに温められたコーヒーか何かをすすって、横になっていたい。どこかの朽ちた木造長屋の表に出された、朽ちたブラウン管テレビを思いながら。…冬を待つ気持ちも勿論あるのだ、乾いて冷えた夜に乗った電車の窓から見た高速を滑る光の列に焦がれているんだ。 なぜなら僕は気まぐれだから、である。どうしても僕は、「どうにも」成れないようだから、しばらく洗えていない車に見える雨粒の跡を、乱視のくせに、じっと見つめたりなんてしてやるつもりだ。仕様の無いまでの自尊心。くだらな過ぎる。「どうとでも」成って仕舞えば良いのに。願うんじゃあない。

20191108

人は物事に、物事は人に所属して生きている。〇〇する為のもの として購入したものの、結局一度も使わずに置いていることがいくつもあるように思う。また、僕はあなた方に所属して、いる?果たして、あなた方は、僕に。そして1度も使用しないまま、もしか、すると。賭け事を教えてくれた僕の友人とは、もうしばらく経つが音沙汰がなく。きっと、所属、に固執していないのだろう。 僕も"所属"を辞めて、額や枠や輪郭をじわりじわりと溶かし落としてゆくことができれば、そのまま。ああ、干渉、でもないし、また断捨離、なんかでもない。努力は"所属"する為の"物事"なんかではなく、実り、身になるものである。 欲しいものは、死ぬほどあるのだけれども。

20191106

脳内、忙しなく行き交う雑踏。僕の回想と、魂を持たない言の葉のものである。きっと意味なんて無いのだろうが、一滴たりとも、残らず、残さず掬い上げて、記録したい。 逃げていたってどうにもならないことを悟ったので、かなり鈍重で慎重だが自身を開示出来るように、文の道を辿ってみる。かなり感覚的な話になるが文の道っていうのは、そんなボトボトと落ちて止まらない言葉から1つの文を築き上げる為に、自己意識の空間内での右上辺りに、丁度カーナビの様に現れる。ゲームでいうところのダンジョンの地図の様な具合だ。と、僕は何というのか、先述した様な、そんな(脳味噌の)忙しない自己意識の世界の中に生きている為に、日々(様々な意味に於いて)何処で生きるにしても、脳から延々と滴り落ち続ける言の葉の欠片めいたもの(もしくは回想、"思考"とも言えるのかも知れない)に妨げられているので、大変括弧書きの多い生き方をしてしまっている。性根が几帳面(及び完璧主義じみたそれ)(←また括弧書きだ!)というところがあるのもそうなってしまう原因の一部だろう。文面ではまだどうにかなるものの、これが「行動すること」(生きていくこと)だとどうなるのか、というところだろう。解答的には、誤解されやすい人間になる である。日頃から偽らずに生きると心掛けているので尚更なのだ。 なんて言って、どの様に生きているのかをひけらかして理解や憐みを得たい訳なんかでは無く、これは弁明、というよりも証明、というような。連日わけの分からない文ばかり書いていた訳だが、このようにヒト語でも表現は出来得るのだ、というような。誰に向けてかは僕にも解ってはいないのだが(この際、僕自身に向けて、なのかも)。慌ただしく交わり続ける言葉については、この表現がどんな甲斐になる訳でもないが、拾い集めて強引にでも引っ付けて文にしていれば、なにかおもしろいものが出来て、酒の回った時にでも読み返せば良いのかも知れない、なんて考えているので、止めどなく切羽詰まったみたいに改行を無しに現すのである。なんとも、全く意味を成さない前置きだ。 さて、どうして僕がこういった手段でこういった自己表出の方法をとっているのかといえば、説得力に重きを置いているからである。僕を描く輪郭となる当人らをツールのように扱ってしまっていることに対し、大変な後ろめたさは常々感じているのだが、今現在僕の(他にも選ぶべき言葉が有るのだろうが、横着してしまう)孤独の方が、天秤にかけた際に勝って(まさって)しまうのだ。故に、この脳内整理とかいう行為にひと段落がつくと、その先は、…どう、しようか。まだ伝えられるところまで伝え切れていないが、些か疲弊してしまった為また次の機会にしようとおもう。

2. (06)

心底に自ら厄介だと存じる。自己表現を望む一方で、認知されることを恐れている。気を楽にして時には何も考えずに生きるが吉だなんて言われたことだって有ったが(いや、有った、ではなく、有る、今なお。今後だって、有る。恐らくだが。)それを伝えてくださるあなた方にも感情や人生や大切に思う人たちが居て、物を考えるじゃあないか(僕はその莫大な、なにか 人 の 生 に殺されそうになっているのだ)、と。良かれと思ってくれていることだって知っているし、僕も時折その言葉に気が楽になっていることだって確かなのだけれど。過去は記憶や記録でしかないと言うし僕は今に生きていたいのだけれどこうして今を記録に残そうとしてしまっている。こういうところが厄介なのである。生きるのに死ぬし永遠なんて無いのに永遠なんて言葉が存在するし矛盾だ齟齬だ混沌だ何だこれは。感情が僕を袋叩きにする。慎重に誠実に生きていたい。1つも嘘をつかずに潔白なまま、下品な事や争い事を避けて、崇高な生を掲げていたい。半端で安い易い脆い。いつもすべてをかけてアプローチを返す、レスポンスをする。その質量に驚かれてしまう。人の生きる姿勢が分からない僕の生きる姿勢が正しいのか何なのかが一番分からない分かれば多分消えてしまうだろう。僕は人が好きだ。感情や人生に面食らうのに、だ。僕は分からない、他人の崇高さに自らが面食らってしまうくせに人の生きる姿勢に疑問を持っている。落とし込むつもりはない。これは矛盾で齟齬で、混沌で曖昧なので、理解されたいというように表現しておきながら、理解される為の言葉を連ねていない。世間は僕だ、とは、なんとなくだが、思う。