20191106

脳内、忙しなく行き交う雑踏。僕の回想と、魂を持たない言の葉のものである。きっと意味なんて無いのだろうが、一滴たりとも、残らず、残さず掬い上げて、記録したい。 逃げていたってどうにもならないことを悟ったので、かなり鈍重で慎重だが自身を開示出来るように、文の道を辿ってみる。かなり感覚的な話になるが文の道っていうのは、そんなボトボトと落ちて止まらない言葉から1つの文を築き上げる為に、自己意識の空間内での右上辺りに、丁度カーナビの様に現れる。ゲームでいうところのダンジョンの地図の様な具合だ。と、僕は何というのか、先述した様な、そんな(脳味噌の)忙しない自己意識の世界の中に生きている為に、日々(様々な意味に於いて)何処で生きるにしても、脳から延々と滴り落ち続ける言の葉の欠片めいたもの(もしくは回想、"思考"とも言えるのかも知れない)に妨げられているので、大変括弧書きの多い生き方をしてしまっている。性根が几帳面(及び完璧主義じみたそれ)(←また括弧書きだ!)というところがあるのもそうなってしまう原因の一部だろう。文面ではまだどうにかなるものの、これが「行動すること」(生きていくこと)だとどうなるのか、というところだろう。解答的には、誤解されやすい人間になる である。日頃から偽らずに生きると心掛けているので尚更なのだ。 なんて言って、どの様に生きているのかをひけらかして理解や憐みを得たい訳なんかでは無く、これは弁明、というよりも証明、というような。連日わけの分からない文ばかり書いていた訳だが、このようにヒト語でも表現は出来得るのだ、というような。誰に向けてかは僕にも解ってはいないのだが(この際、僕自身に向けて、なのかも)。慌ただしく交わり続ける言葉については、この表現がどんな甲斐になる訳でもないが、拾い集めて強引にでも引っ付けて文にしていれば、なにかおもしろいものが出来て、酒の回った時にでも読み返せば良いのかも知れない、なんて考えているので、止めどなく切羽詰まったみたいに改行を無しに現すのである。なんとも、全く意味を成さない前置きだ。 さて、どうして僕がこういった手段でこういった自己表出の方法をとっているのかといえば、説得力に重きを置いているからである。僕を描く輪郭となる当人らをツールのように扱ってしまっていることに対し、大変な後ろめたさは常々感じているのだが、今現在僕の(他にも選ぶべき言葉が有るのだろうが、横着してしまう)孤独の方が、天秤にかけた際に勝って(まさって)しまうのだ。故に、この脳内整理とかいう行為にひと段落がつくと、その先は、…どう、しようか。まだ伝えられるところまで伝え切れていないが、些か疲弊してしまった為また次の機会にしようとおもう。